BayGUI作者が転職した理由
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0508/19/news029.html
これを読んだら自分と id:higepon がすごく近い境遇にいることがわかりました。というわけで自分も書いてみたくなりました。
私が始めてパソコンと出合ったのは小学生の頃。当時としては珍しく家にはMSXというパソコンがありました。これが今の自分の基礎を作ったのかもしれません。お金がないのでゲームも買えず、ひたすらBASICのプログラムを打ち込んでいました。でも、MSXでは作ったプログラムを保存することができなかったので大きなプログラムは作れませんでした。
中学生になった頃にはエプソンの98ノート互換機を買ってもらいました。ゲームは1本もなく、作ったBASICのゲームをフロッピーディスクに保存することができました。この頃は簡単なRPGなどを作っていました。C言語にも数時間触れましたがとても中学生が理解できるようなものではありませんでした。ちなみに中学生の頃にはSEという職業について本で読み、その辛さも知りました。なんとなく将来はこの仕事をしようと思っていました。SEとかプログラマーは見た目ほど華々しい職業ではありません。もしSEとかプログラマーを志望する若い学生さんがいたら一度じっくり本当に自分はその仕事がやりたいのか考えることをおすすめします。プログラムは会社じゃなくても作れるのですから。自分はパソコンとプログラミングが心底好きだからこの仕事をやっているのだと思いますけどね。
高校生になった頃には富士通のFM-TOWNSを買ってもらいました。あの頃CD-ROMとゲームパッドが標準でついてくるパソコンなんてありませんでした。しかもGUIのすごく先進的なOSを搭載していました。このパソコンではいろんなゲームを楽しみ、Windows95が出るまではWindows3.1をいれて使っていました。この頃もC言語には触れていません。やっぱりBASICでプログラムを作ったり、アニメーションエディターで紙芝居を作ったりしていました。MOとカラーインクジェットプリンターが登場した頃でもありました。HP DeskJet505Jはいまだに覚えている名機です。
大学生になった頃ウィンドウズ95ブームが到来。私も富士通のDOS/Vパソコンを買いました。大学と学部は id:higepon と同じです。彼とは同級生なのです。直に会った頃はありませんけど。C言語は授業でやった程度、プログラムはできませんでしたが、LinuxとFreeBSDを主に使っていました。実験のレポートも卒業論文もTeXで書いてました。ちょっと前ならごく普通の理工学系大学生だったのではないでしょうか。大学3年の冬、就職活動で新横浜のベンチャー企業を受け、Javaという言語が流行っていることを知りました。残念ながら内定はもらえませんでしたが、この会社にはいろんなことを教わりました。自分も必死でJavaを勉強し、卒業論文のプログラムはJavaで作ってました。物理情報工学科内でJavaをやってたのはたぶん内の研究室だけでしょう。
就職は大学から推薦をもらった某大企業の子会社へ。ここではJavaによるちゃんとしたオブジェクト指向プログラミングと、C言語とC++言語を勉強させてもらいました。仕事で言語を覚えるときはものすごいスピードで覚えられます。ポインターなんて全くわからなかった自分も1ヶ月で商用アプリを書く身分に。あの携帯電話には特別な思い入れがあります(笑)
某大企業は品質を非常に大事にしていたため、実装の際に大量のどうでもいいドキュメントを作らなければいけません。無駄とわかりつつも大企業の体質は一朝一夕には変りません。そんなときにあるコミュニティの人たちと交流があり、その人たちの技術レベルに驚愕しました。こんなスピードじゃ全然遅すぎると焦りました。今のままの成長勾配ではとても40代で引退してアジアで隠遁生活なんて送れそうにありません。
そんな折、今の会社の社長に会いました。実は前の会社の新入社員の頃に一度会っているのですが、そのときはお断りしてしまいました。6畳で3人でやっている会社と社員1万人の会社では違いすぎてさすがに不安になります(汗)でも、2度目に会ったときの社長はだいぶ社長らしくなっていました。ビジョンもありました。なにより「朝令暮改を受け入れよ」という考え方が好きです。無駄なものを切り捨て、使えるものをどんどん吸収しようという貪欲さがあります。現在私は Perl と Rup を勉強中です。ベンチャーの人たちは日々自己啓発に取り組んでいて一緒にいてものすごく刺激になります。自分は昔から人と同じことが嫌いでした。きっとこういう環境を求めていたのだと思います。